手塚治虫『火の鳥』未来編 命と宇宙と不死と核と… 盛り沢山の物語
こんにちは、べっちです。
今日は昨日に引き続き、手塚治虫『火の鳥』の話で、
「未来編」についてお話させていただきます。
「黎明編」で遠い昔の話から始まったと思ったら、いきなり「未来編」です。
どんな展開になるのかワクワクしながら読み始めました。
いきなり最終回のような展開に困惑するも・・・
火の鳥「未来編」は話の展開が物凄く奇想天外でした。
まず早々に核戦争で人類が滅亡してしまうのです。
1巻の「黎明編」の次が「未来編」でいきなり人類滅亡。
まるで最終回のようです。
「未来編」の次は「大和編」で、その後も既刊は続いていくのに、最終的に待っているのは滅亡だと先に言ってしまうなんて。。
この先どうやって話が繋がっていくのだろうと少し困惑をしながら読み続けました。
そうしたらラストもまた衝撃で、未来だと思っていたのは遠い過去で、何億年も前に栄えて滅亡した人類の話だったのです。
タイトルは「未来編」ですが、まさか実際は遠い昔だったとは、本当にいい意味で裏切られました。
でも、生命と文明の滅亡と繁栄のサイクルは何回も繰り返されているので、「未来編」というよりは「終末編」・・・「起源編」・・・?
うーん、やっぱり「未来編」と言い切ってもらって分かりやすかったかもしれません。
それにしても、「黎明編」の後にこの「未来編」を持ってきたのはどうしてなのでしょう。
もしかしたら、
「次の人類こそは同じ過ちを繰り返さず、正しい方向に進化してほしい」
という期待が込められた話だということを、なるべく早い段階で伝えたかったのかもしれません。
不死とは残酷な力
人類が滅亡してしまった中たった一人「マサト」は、不死の力を「火の鳥」から授かって生き続けることになります。
不死ではあるけれど不老ではなく、ゆっくりしたスピードでマサトは年を取っていく中で、生物の起源から人類まで進化するのを見守る役目を負います。
ちょっと滑稽だったのは、年をとったら急に話し方が年寄りらしくなって「ワシは○○じゃ」なんて話し方をし出したところです。
「ワシは○○じゃ」なんていう話し方の人は、若い時からもそういう話し方ですよね。。
それはさておき、「不死」とは残酷な力なのだということを、今回マンガという形で分かりやすく教えてもらったと思います。
今まで僕は単純に死ぬのが怖いだなんて思っていたけれど、孤独に一人で永遠に生きつづけるなんて、まさに地獄そのものだということを認識させられました。
「不死」を授かり神のような存在となった「マサト」は、無限とも思える時間の中でたった一人、生物や人間の営みをただただ見守っていなくてはならず、途中で投げ出すこともかなわないのです。
その上、間違った方向に進化して滅亡でもされたら、もうもやるせなくて気が狂ってしまってもおかしくないと思います。
もし神様が本当にいるとしたら、神様はさぞ大変な仕事だろうなぁと思ってしまいました。。
まぁそれでも健康でいられるのは長くてもたった60~70年位しかない人生は、やはり短いなぁと正直思ってしまいますが。。
生命と宇宙の壮大な物語
「マサト」は火の鳥から不死の体をもらう時に、素粒子の中の超極小の世界や、大宇宙を超えた超極大の世界まで一気に旅をすることになります。
旅の中で、マサトはこんな宇宙の姿を火の鳥から教わります。
- 僕らが物質の最小単位だと思っている「素粒子」の中にも、さらに星を回る惑星のような「素粒子」がある。
- 僕らが観測しきれないほど大きな宇宙も、もっと大きな存在に包まれる一つの「素粒子」に過ぎない。
- 極大のものから極小のものまでみんな「生きて」活動している。それを「宇宙生命(コスモゾーン)」と呼ぶ。(僕らが認識している生命とは異質のものだけども)
実は僕、こういう話は大好きで、過去にこんな記事を書いています。
↓↓
宇宙のことを考えると眠れなくなる話 素粒子の中に広がる宇宙の妄想
・・・まさか手塚先生も僕と同じようなことを考えていたとは思っていたので、嬉しくなってしまいました。
また、ラストの方では、
- 宇宙や惑星、動植物、細胞、分子や素粒子、全てのものには「宇宙生命(コスモゾーン)」が入り込むことによって生きている
とあります。
つまり、地球上の「生き物」も、「生き物」以外も、「宇宙生命(コスモゾーン)」が入ることによって生きているということには変わりないということになります。
そうなると、僕も「宇宙生命(コスモゾーン)」によって生かされているということになるのかなぁ。
僕が生まれる時に(というより受精卵になった瞬間?もっと前?)、「宇宙生命(コスモゾーン)」が僕に入ってきて、僕が死ぬ時には「宇宙生命(コスモゾーン)」は離れていく・・・
そして、僕に入っていた「宇宙生命(コスモゾーン)」は、他の物質や「生き物」に入り込み、物質には物質なりの「命」を、「生き物」には「生き物」なりの「命」を授ける・・・
ひょっとしたら手塚先生の死生観も、このようなものだったのかもしれません。
終わりに
手塚先生は、敢えて核戦争で生物滅亡という最悪のシナリオも描くことで、平和への強いメッセージを発しています。
そして核戦争と言えば、どうしても浮かんできてしまうのは北朝鮮とアメリカ、そして挟まれた日本の問題です。
第二次世界大戦の後は戦争で核が使われることはありませんでしたが、今度戦争が起きたらどうなってしまうんだろうという不安は拭えません。
理想は核爆弾が無い状態です。
核さえなければ、広島・長崎の悲劇は二度と繰り返すことはありません。
でももう持ってるのはお互い様なんだし、唯一の被爆国である日本も、矛盾を抱えながら現に核の傘に守られてるわけです。(賛否両論あるでしょうけど)
自分らだけ持ってて(守られてて)、相手(北朝鮮)には持つことを認めないなんて、そんなのズルいと僕は思います。
なので、ある程度もう保有は認めてしまって、実際に核が使われる可能性が高まってしまう戦争だけは避けよう、とは考えられないものなのでしょうか・・・?
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